第1回 シリコンバレーからの風

はじめまして。この度、厚友出版の田中編集長と縁あって、本誌に記事を書かせていただくことになりました、ビーンスインターナショナルの遠藤と申します。当社は米国シリコンバレーで日本の生産技術やものつくりのノウハウによって生まれた商材をアメリカで販売/サービスすることを生業としております。
私は元々神奈川県にあった電子検査機器を製造するメーカーに勤務しておりました。1985年、従業員が50名に満たない町工場的イメージのこの会社に文系出身の私は電気のでの字も知らない状況で入社し、営業部員として日本中の民生機器を製造する電機メーカーへ足を運ぶ日々を送っておりました、当時は1980年代の中盤でバブル景気を目前に控え、円高がじわじわと進行し日本のメーカーの生産が徐々に海外にシフトされていく、そんな海外生産シフトの黎明期だったように記憶しております。私が勤めていた会社も実装基板の生産ラインにはいる検査機をメインで生産していた関係で、早い時期から海外に生産をシフトする日本のメーカーを追いかけ、当時、移転先としてポピュラーだったシンガポール、マレーシア、台湾へ率先して営業攻勢をかけ、かなり業績を伸ばしていました。私自身、1986年から韓国担当となり、日本からのアクセスが便利なことから月の半分は韓国のホテルを拠点として、同地の代理店と共に当時88年のソウルオリンピックを前にして飛ぶ鳥を落とす勢いで高度成長を続けていた同地で、その中心となっていた4大財閥<三星、現代、金星(現:LG)、大宇)に食い込むべく約2年間、営業活動に精を出していました。

その後88年に当メーカーが大手商社と提携して市場開拓をしていたアメリカへ営業活動のサポートとして渡米。89年に同社がバブル最盛期に店頭公開を果たした事もあり(公開当時従業員は300人近くになっていました)、その勢いで現地法人を設立するに至り、私はそのままアメリカに残り現地法人のセールスマネージャとして正式に赴任しました。

それから14年、95年からは同現地法人の代表を務め業績もそこそこに推移してきましたが、なんと96年のアジアンクライシス(アジア不況)のあおりを受けて日本の親会社が1998年に倒産してしまったため、日本の裁判所からの命令により半年かけて現地法人を清算(非常に苦労の連続でした)、今までお世話になった現地のお客様に何とか貢献すべく、99年より自力で会社を興し今日に至っている次第です。

アメリカは1988年というと、ちょうど最初のPCブームが終わりを告げ、景気的には低迷していたころでした。しかし90年の初頭になると、海外産の低価格のPCが市場に浸透しはじめ、またテレフォーニーという電話を利用した会議システムやサーバーを利用した留守番電話サービスが徐々にオフィスツールとして浸透してきていてコミュニケーションという見地から考えると既にIT産業の巨大なバブルへ突入していく胎動のようなものがあったような気もします。この先、97年頃から始まる狂乱のIT景気は既にご承知の通りですが、たまたまそのような激動のアメリカにいてIT産業のゆりかごから墓場までを身をもって体験できたことは自分にとって非常に意義のあるものになりました。また中小企業のアメリカ現地法人の駐在員として、前歴がありアメリカでの生活というインフラを既にもっている大手の現地駐在員には本来不要の経験を山のように出来たことも今から思い返せば本当にいい勉強になっております。これらの自分にとっては貴重な経験を是非共有したく、この記事を通じて、一般的にはITやソフトウェアが中心といったイメージのあるシリコンバレーにおいて製造業に深く携わっている私の目から見た同地の状況や、自分の経験に基づいた中小企業がアメリカでビジネスを展開することの難しさと醍醐味、そして日本の皆さんが元気になるようなお話ができればと思います。宜しく御願い致します。

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