今回の日本出張で、ちょっと目についたのは中国のEVメーカーBYDのテレビCMだ。ご存じの通り日本のメディアの大手スポンサーといえば自動車メーカーで、当然、彼らへの配慮からか日本のTV番組では、あまり海外の自動車メーカーの情報やら新しいモビリティ産業、特に新興国の動きなどは殆どメディアに出てこない。そんな中、BYDが日本のメディアのスポンサーとして登場している事は、かなり興味深かった。同時にラジオ放送で偶然BYD JAPAN社長のインタビューを聴いたのだが、CMが功を奏し同社には現在1日200件ぐらいの問い合わせがあるという。そしてバスといえば、三菱ふそうや、いすゞ、日野自動車が主流と思っていたが大手バス会社の副社長を務める友人からも、現在BYDの業務用バスの検討を始めていて近く実証デモをするとの話を聞いた。EVである事、そして価格は現状の3割安との事で安全性さえ確保できていれば十分検討に値するという。彼の会社も老舗のバス会社だけに生き残りをかけての社内改革を実践しており、そこには昔からの付き合いや培ってきた信頼性という繋がりはもう過去の事になっている現状があるようだ。この先、このような市場の変化に呼応してBYDに限らず今SDVで存在を増しつつあるシャオミをはじめとした中国勢、そして世界中のEV各社が今後は日本ブランドの牙城に攻勢をかけてくることは容易に想像できる。
このBLOGには何度も書いているが、自分は当時メインで携わっていた1990年代まで間違いなく世界で牙城を築いていた日本のTV産業の崩壊を現場で目の当たりにしてきた。1990年代といえば未だブラウン管が主流で、独自のトリニトロン方式を武器にTVのみならずPC用のディスプレイでも世界をリードしていたSONYは、当時アメリカに近接するメキシコに従業員2,000人規模の工場を3つ構え、フル稼働で生産をしていた。またPANASONICやTOSHIBA、SHARP、三菱も同地に工場を構えTVを生産。日系だけで年間1,000万台の生産規模を誇り当時のアメリカにおける市場シェアは40%を超えていた。これがTVの革命でもあった液晶化が始まりTV自身も方式がデジタル化した2000年代に入った途端、わずか5年でLG、サムスンといった韓国勢や中国のHISENSE等、新興メーカーに凌駕され、あっという間に消え去ってしまった。
今でも覚えているが、確か2005年にSAMSUNGが最初に$600で40”の液晶TVを販売した時(当時SONYのBRAVIAは同じ40”で$1,000以上)、SONYの幹部に「サムスンいきなり凄いですね!この先どうでしょう?」と聞いたところ「いやあ、こういう事されると市場価格が下がっちゃうから迷惑なんだよね。でもうちはブランドも市場もあるし大丈夫でしょ!」と暢気な回答。その後3年もしないうちに同社はメキシコにある2工場を閉鎖に追い込まれ、最後に残ったメインの工場も2010年にFOXCONNに売却して終焉。SHARPをはじめ、他のTV大手も同じ末路をたどっていった。
今回のBYDの攻勢をみて、正直、TV産業で自分が体験したことが自動車業界でも起きそうな気がしてならない。確かに日本をはじめ世界で確固たる地位を占めている日本の自動車メーカーだが、その地位は果たして、そんなにゆるぎないものなのか?特に自動車とは縁遠くなっている感のあるZ世代の若者たちにとって日本ブランドの自動車は価値のあるものなのか?
日本のTV産業の崩壊時の2000年代後半に、もう一つエピソードがある。アメリカ在住の自分の同世代の友人宅でTVの買い替えを検討。彼は奥様も生粋の日本人で、日本の民生機器の大会社での勤務経験もあり、せっかく買い替えるのなら日本ブランド!という事で、当時は未だブランド力のあったシャープのAQUOSを購入して自慢げに家に配達してもらったところ、2人の娘たちから「なんでサムスンじゃないの???」と罵倒されたそうだ。実際のところ、日本のブランド力というのは我々が思っている以上に脆いものなのだという事を自分自身も体験してきたが故に、この話を聞いて気持ちは本当に複雑だった事を思い出す。
1980年代の終わりにアメリカに渡った自分は、アメリカ国内での出張で宿泊するホテルの部屋にある電化製品がTVはSONY,ドライヤーはSANYO,電話機はPANASONICと、ことごとく日本製品だったことが本当に誇らしかったが、昨今のホテルの部屋で日本ブランドの品々は残念ながら見たことが無い。当時、降り発つ空港の多くに設置されていた離発着を表示するディスプレイも殆どが日本製だった事は、今の若い世代は知る由もないだろう。
正直なところ最後の牙城である日本の自動車産業も同じような終焉を迎えてしまう状況だけは見たくないのが今の本音である。
米)BEANS International Corporation代表。 神奈川県出身。1988年に渡米。10年間の駐在員経験のあと1999年に独立しシリコンバレーにて起業。同地で一貫して次世代産業を支える製造業関連の仕事を継続し現在に至る。